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種子島report

種子島宇宙センター

『宇宙に一番近い場所』

種子島宇宙センター(TNSC)

種子島の南端の太平洋側の岬に宇宙センターがあります。長く広い砂浜に

1978年から1993年頃まで種子島宇宙センターに出張に来ていて、2020年11月の暮れに約30年振り訪れて写真を撮影しました。

宇宙センターは1966年(昭和41年)に建設が開始され、現在には、竹崎射場、大崎射場、吉信射場があります。


宇宙科学技術館「展示館」
南種子町茎永から宇宙センターの竹崎射場に入るとN-Ⅰロケットの実物が見え宇宙科学技術館前に到着します。40年前の記憶が走馬灯のように蘇ってきます。

40年前は「展示館」と呼ばれていたと思います。オープン当時は、展示物に科学クイズでどうしてロケットは飛ぶのか、人工衛星などのゲーム機が置いてあり、また、ロケット打上模様を再現した模型などがおかれ島の子供たち遊び場や勉強の場になっていました。また、シアタールームもあり宇宙を題材にした記録映画や一般映画が上映されていました。確か“カプリコン1”を見たと思います。
私のロケット人生は、昭和53年度のN-Ⅰロケット5号幾(あやめ)発射整備作業から始まりました。


N-Ⅰロケットは3段式ロケット液体ロケットです。
 補助ロケット:3基
 全長:32.57m
 直系:2.44m
N-Ⅰロケットは米国のマクドネル・ダグラス社等からの技術導入で製作したロケット。ロケットは最新技術の複合機体です。

私は1,3段電気系オペレータとして打上隊に参加し分厚い手順書を持って現場に出ていました。

①電気系地上支援装置、支援キットの保全作業
装置の機能や電灯の点検、機体に接続する電気ケーブルの導通/絶縁点検などを行います。

②ロケットを点検する前に機体シュミレータを用いて制御操作卓と接続し機能点検を行うシステムの点検を行います。

③ロケット機体と電気系地上支援装置を接続し、各段(1,2,3段)の電気/誘導/推進/油圧系統点検を実施し最後に全段のシステム点検を行います。

④ロケット打ち上げのため移動整備棟(MST)を退避しランチデッキ(LD)に立つN-Ⅰロケットです。

MSTの10Fで手すりに安全ベルトの先を繋ぎ扉が開いたときは怖かった。MSTが動き始めアンビリカルケーブルを送り出すときは恐怖と戦いながら作業をしていた。

系統別積み上げ点検

N-Ⅱロケット2号機(ひまわり2号)を含め6~7本の打ち上げに参加しました。ロケットを組み立て点検整備する打上作業を学びました。

telemeter  

エンジンは内燃機関で”清浄度取扱”、補助ロケットは固体ロケット、1/2段分離モーター等は火工品で”火工品取扱”の実技と講習を受けて資格をとって発射整備作業に従事していました。
今思えば、N-Ⅰ、N-Ⅱロケットへ燃料、電力を供給する塔のアンビリカルマストを登るのは 高所恐怖症で怖かったですが、何時かてっぺんで昼寝をしたことが思い出されます。

大崎射場、吉信射点に来ました。大崎射場は、N-Ⅰ、N-Ⅱ、H-Ⅰロケットの打ち上げ場で、当時は駐在していました。
N-Ⅰロケットの後継機で1981年から打ち上げられたN-Ⅱロケット。米国デルタロケットの技術導入した慣性誘導計算機を搭載し自立で衛星を軌道投入する。ブラックボックスで輸入し米国技術者の支援を受けて打ち上げていました。

N-Ⅱロケットの発射整備作業での打ち上げリハーサル。
衛星は未搭載、火工品を結線しないで推進薬を充填して打ち上げまでシーケンスを確認する。

手前の枯芝の山の地下がBH、その後の鉄骨の建物が移動整備棟、奥のロケットがN-Ⅱロケットとアンビリカルマスト。


N-Ⅱロケット3号機以降、H-Ⅰロケットの開発試験隊へ編入し種子島ロケット発射整備から離れ筑波宇宙センター、秋田県田代ロケット燃焼試験、角田ロケット開発センターへと移りました。
H-Ⅰロケットの開発試験が終わり、H-Ⅰロケットの発射整備には参加せずH-Ⅱロケットの開発途中の1段推進系基本設計に携わることになりました。

電気回路を学んできた私が推進系設計で、最初に教わったのが『配管は電線、圧力は電圧、重量流量は電流として考えろ』から教わり、ここから苦難と向上が始まった。

H-Ⅱロケット研究(1983)から積み重ねられてきた最終開発試験が第1段実機型タンクステージ燃焼試験。

H-Ⅱロケットは1994年に1号機が打ち上げられましたが、LE-7エンジン開発遅れから2年延期されていました。

H-Ⅱロケットの実機型タンク燃焼試験(CFT)で、この燃焼試験が最後の種子島出張になりました。

竹崎の宇宙科学技術館前の砂浜。
広く長い砂浜です。
1979年2月3日に撮影しました。この3日後の2月6日にN-Ⅰロケット5号機が打ち上げられています。
2月3日はN-Ⅰロケット打上げ”ターミナルカウントダウン Y-2”で、おそらくタスクが組み来られてなくて竹崎射場まで足を運んで撮影したのだろうと思う。
美しい砂浜だったのを覚えていますが今回訪れたら砂浜にプラスティック袋や空き缶類が放置されていて決して綺麗とは思えません。
2020年に訪れた時は、宇宙科学技術館とリニューアルされています。
展示館時代には、喫茶部があり、喫茶店から眺める竹崎海岸は美しかったのを覚えています。

喫茶部では、かき氷の“シロクマ”を食べに来ていた。本当はコンパニオンさんとお話しをしたくて来ていました。

写真は喫茶部で撮影した『SONY メタル365』ラジカセです。昭和57年頃5万円も出して購入しました。
長期出張の必需品で、種子島、秋田、宮城、茨城のいずれの出張先にも携帯していました。(落としても壊れなく丈夫でしたが最終的にはバラして修復不能になりました。)
館内は日本産各種ロケットのスケールモデルや、開発が完了したエンジン供試体などが展示されています。
N-Ⅰ、N-Ⅱロケット。2段液酸液水エンジンを開発したH-Ⅰロケット。全段純国産技術で開発したH-Ⅱロケット。改良型H-ⅡAロケット。宇宙ステーション物資輸送こうのとり打ち上げ用H-ⅡBロケット。他に固体ロケット群が並んでいます。次期基幹ロケットのH-3ロケットは、訪れた時には展示されていませんでした。
館内には、H-Ⅱロケット第1段エンジン(LE-7)と第2段エンジン(LE-5)が展示されています。
特に、H-Ⅰロケット搭載されるLE-5エンジンの2段開発では試験体として苦労したので懐かしく思います。
宇宙科学技術館「展示館」の前は、広い芝生の敷地と広い海岸と漁港があります。ロケット発射整備期間中の休日には芝生の広場でバレーボールやゴルフ場を楽しんで過ごしていました。



竹崎海岸の砂浜、岬では海水浴をしていました。
しかし、夜になると街頭がなく月も出てないと真っ暗になります。
道の先には竹崎射場があり小型固体ロケットが打ち上げられています。

竹崎の先には漁港があり、観光地であり娯楽地でもありました。
芝生の上に、H-Ⅱロケットの実物大模型が展示されています。H-Ⅱロケットから設計として携わり工場で組み立てている時に何度も見てきた機体で、横たわって置かれていると感慨深いです。
竹崎射場から海を臨みながら尾根伝いの道を走ります。途中に『ロケットの丘展望所』があり、吉信射点を眺めなることができます。



ロケットの打上はリフトオフから飛行中の緊張と衛星分離の報告の歓喜と充実感が味わえる



今は、大崎射場は更地になっています。現在はセキュリティで射点へは”関係者以外は立ち入り禁止”になっていています。吉信射点の見学は叶わなくそのまま通り抜けました。



南種子町

『南種子町上中交差点』

南種子町の中心の上中交差点。昭和50年代の種子島の人口は、西之表市3万人、中種子町1万2千人、南種子町8千人と言われていた。
この南種子町にロケット打ち上げ隊の宿泊旅館が多くあります。”きく”、”みのきち”、”わかさ”、”高島”、”かつら”と御贔屓の旅館に宿泊されています。

私も定宿を”長田荘”、”ホテル高島”、”みのきち”、”わかさ”と渡り歩いていました。
静かな町ですが、スナックが立ち並び、


”町立 中平小学校”
この交差点の右手前に”宇宙開発事業団”の送迎バス停留所があります。




宇宙が丘

『ロケット打ち上げ見学所』

今ではH-Ⅱロケットのモニュメントが置かれ、展望デッキに上がると太平洋を見ることができます。
昭和50年代には宇宙が丘辺りに”種子島ユースホステル”があったが令和で調べたら無くなっていする。地元青年の紹介でパーティに呼ばれてことがあったのを覚えている。
南種子町上中交差点から更に南へ数キロ行った所に宇宙ケ丘があります。
宇宙ケ丘からは種子島宇宙センターの大型ロケットの打ち上げが見学できる展望所になっていて、ロケット打ち上げの見学時は人で一杯になります。
また、種子島は高い山がなくほぼ平坦な島であることが確認できます。隣の屋久島は九州で一番高い山です。
1979年のN-Ⅱロケット打ち上げられた写真でこの様に見えます。
40年前は戦争の残流品の大砲台が置いてあったと記憶していますが、



門倉岬

『鉄砲伝来-ポルトガル船難破場所』

種子島最南端の断崖絶壁の岬。太平洋に張り出し、目の前には水平線が広がっていています。岬の高台にたつとタイタニック船の先端に立った気分になれます。

断崖絶壁の上から海岸を見下ろせば狭い砂浜があり、ここは、1543年にポルトガル船が難破して鉄砲が伝来された場所です。13代室町幕府将軍・足利義晴の時代で応仁の乱が終わり戦国時代に入った頃になります。
40年前にバーベキューを楽しんだことがあります。その時は木の案内板がありましたが今回同じ看板を探しましたが見当たりませんでした。
戦国時代劇の映画、黒澤明監督の“七人の侍”とかを見ていると“種子島”と言うセリフが度々でてきますが鉄砲のことでした。
『鐡砲傅来紀功碑』
鉄砲伝来を記念して記念碑が建てられています。写真の左側に、鉄砲伝来紀功碑が、右側に鉄砲伝来記の案内板が設置されています。

『御崎神社』は、種子島の最南端にある神社です。祭神は大国主之命です。なお、旧名は、島尾大明神です。



種子島空港

『種子島空の玄関口』

旧種子島空港には、東亜国内航空のYS-11が就航していて空港に降り立つとそこは南国の景色でした。

今、旧種子島空港を訪れるとフェンスに囲まれ空港ターミナルはそのままの状態で残され無人の状態になっていました。
タラップを降りると気温が一段高く感じ、ソテツの木があちこち見られ、種子島の方言の”おじゃりもうせ”の垂れ幕が迎えてくれます。

宿泊所は南種子町で路線バスに乗り走る道の両脇にはサトウキビ畑が広がって走って民家はほとんど見当たりあせん。初めて来た時はえらいとこに来たものだと思った。それから種子島への出張を繰り返していると、この空港に着陸し飛行機の到着ハッチが開くとムーンとした熱気が立ち込め、到着ロビー前で、“アーン、また来てしまった。”と長期滞在に諦めムードになりました。
当時就航していたYS-11は、今こうして写真を見るとスマートでかっこいい機体です。三菱重工製で最も優れていたと評判の機体でしたが、今は全て退役されました。
また、1982年(昭和57年)の秋には、この空港でセスナを使ってH-Ⅰロケットの開発試験の誘導制御装置(NIGS)の飛行試験を行っていました。若かりし頃の姿です。
新種子島空港。
旧空港の東方面に新しい空港が建設され平成18年に開港されました。ジェット機の発着が可能として開港されましたが発着していたのがプロペラ機でした。



千座の岩屋

『海の浸食で出来た岩屋』

種子島の東海岸の平山地区に広い砂浜があり、奥に大きな岩があります。その岩に小さな洞窟の穴があり海食によってできた岩窟で、内部の広さは千座あるとされています。
今回は満ち潮で細い洞窟に波が押し寄せてくる音が洞窟内で轟音に聞こえ恐ろしいくらいです。今回は引潮ではなかったので洞窟の中までは入れなかったのが残念でした。
昭和時代に撮影し気に入っている写真です。
引き潮の時は、岩窟の中は広く、洞窟の中から太平洋の海を見ると絶景ですので見てください。見学されるときは引潮時を狙ってください。




宝満神社

『ロケット打ち上げも神頼み』

南種子町茎永交差点を東に行けば宇宙センター、西に行ったら宝満神社があります。
ロケット打ち上げ担当者が打上げ成功と安全祈願の為に参拝されていて一度参拝しようと訪れました。
入口に石灯篭があり進むと森の中へと進む参道があり結構進んだところに木々に隠れて古い祠が建立されています。
由緒は、玉依姫命(タマヨリヒメ)で、日本神話に出てくる神武天皇の母とされています。
水田を開拓し稲を作り、食生活を潤した御神徳を称え奉って、宝満池の畔の今の浄地に奉斎されたものである。


西之表

『海の玄関口』

種子島の玄関口、鹿児島港から昭和50年代はフェリー船で約4時間でしたが現在はトッピー高速船で渡りました。1.5時間で渡れるようになりました。

西之表港にはH-Ⅱロケットのモニュメントが迎えてくれ宇宙への玄関口として観光に力を入れられている。
南種子町でホテル住まいをしていて休日に西之表市へ出かけていました。
当時(昭和55年頃)は、バス代1,000円、時間は1時間半かかりますが、余暇を求めて、映画館、ボーリング場、喫茶店等へ出かけ休日を過ごしていました。
種子島発着航空券はいつも満席で入手するのが難しく、特にロケット打ち上げ後は、関係者が一斉に鹿児島に渡ろうとします。この時はフェリーで鹿児島港に渡ります。
西之表港から鹿児島港まで4時間かかります。船底の2等乗船券で乗船しまに甲板に出て海風に当たります。軽食でうどん販売があり食すると”塩出汁の辛いうどん”でした。


種子島開発総合センター(鉄砲館)

『種子島歴史博物館』

1543年に種子島の門倉岬にポルトガル船が難破して鉄砲が伝わったとされ外観は南蛮船をイメージされています。

館内には、伝わったとされるポルトガル銃や国産銃が展示されています。戦国時代劇では鉄砲を”種子島”と読んでいます。代表的なのは織田信長と武田勝頼の長篠の戦で、最強と歌われていた騎馬隊と鉄砲の戦いで鉄砲が大勝利を収めた戦です。
赤尾木城文化伝承館 『月窓亭』です。
このお屋敷はかつては、かつての羽生慎翁の邸宅です。祖父の道潔が寛政5年(1793)に建てたもので、慎翁が島を離れたことに伴い、明治19年(1886)、旧島主・種子島守時公の住居となりました。近年になって市の所有となり、平成22年(2010)から一般公開されています。