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長野report

松本城

『国宝 松本城』

松本は飛騨山脈、木曽山脈、筑摩山地に囲まれた標高500mから800mの静かな盆地です。戦国時代には1550年に武田晴信(信玄)、1582年織田信長、1590年に豊臣秀吉から許され石川数正が入城した。
天守築造
 豊臣秀吉は、天正18年(1590)に小田原城に北条氏直を下し天下統一すると、徳川家康を関東に移封しました。この時松本城の小笠原氏が家康に従って下総へ移ると、秀吉は石川勝正を松本城に封じました。勝正・康長親子は、城と城下町の経営に力を尽くし、家永の代には天守三棟(天守・乾小天守・渡り櫓)はじめ、御殿・太鼓門・黒門・櫓・塀などを造り、本丸・二の丸を固め、三の丸に武士を集め、また城下町の整備をすすめ、近世城郭としての松本城の基礎を固めました。天守の築造年代は、家永による文禄2年から3年(1593~4)と考えられています。    ©松本城パンフレットより
松本城は黒い漆黒の外壁で「黒い城」から「烏城」と呼ばれているとか。でも松本市では一言も「烏城」とは呼んでないそうです。

堀の岸壁に聳え立つ天守閣。5層の天守ですが実は6階建てで。天守閣に入場すると狭く急階段です。

天守閣の内部を撮影するのは禁止されていますので、天守閣内部は広く階段は及勾配です。なぜか大坂の陣や関ヶ原の戦いの説明パネルが掲げてありました。
初代城主の石川数正の知名度は低かったのですが“2023NHK大河ドラマ『どうする家康』で、徳川家康の“懐刀”で、「桶狭間の戦い(1560)」前から家康に仕えていて、豊臣秀吉と徳川家康が戦った「小牧・長久手の戦い(1584)」で徳川家康と豊臣秀吉を和睦させたとされる人物で、その翌年の天正13年(1585)に石川数正は徳川家康から豊臣秀吉へ寝返ったとされている。この寝返った理由が戦国時代の最大の謎とされています。
このことはNHK大河ドラマ“どうする家康”の第33話で石川数正の裏切りが描かれています。(“どうする家康”は史実と乖離しているとありますので注意方。)

天守閣手前の突き出たところが月見櫓。太平の世になった1633年から増設されたとされています。舞台のような広間で満天の月を見ることができるでしょう。
堀の外では夕刻の松本城天守閣を撮影しようと多くのカメラマンが三脚を広げその瞬間を待ち望んでいます。
アルプスの山々を背景に凛々しくたっています。
本丸御殿は1727年に焼失して復興されず現在に至っている。
名古屋から木曽川の河岸をひたすら走る中央本線の“特急しなの”。
さくらの花が満開で、木曽山脈の山頂では残雪の景色。

松本城は現存天守閣の国宝だった。姫路城、彦根城、犬山城、松江城とともに国宝に指定されている。

テレビのバラエティで“日本の城”の特集番組があると必ず上位に選出される『松本城』。
松本城に訪れると、1対9の割合で外国人観光者が見えます。右を見ても左を見ても外国人観光客で松本市民より多いと感じるほどです。

でも、朝起きて松本駅まえのバスターミナルやJRの到着する列車を見ていると日本人の多さに吃驚します。
向井千秋さん(心臓外科医師)が、1994(平成6)年にスペースシャトルで宇宙に持って行ったツツジの種から発芽させたもの。向井千秋さんは群馬県館林市の出身者であり種は友好都市へ配られた。
ちなみに、平成6年は、H-Ⅱロケット1号機打ち上げ成功した年です。
宇宙ツツジ
日本人初の女性宇宙飛行士、向井千秋さんと宇宙を旅したツツジの種から発芽させたもので、全日本花いっぱい館林を記念して群馬県館林市から松本市に寄贈されました。
 松本市は、花いっぱい運動発祥の地として、長年この運動に取り組んでいます。
   平成12年(2000年)5月1日植樹
       ©看板より
本丸に入る正門の“黒門”から入ると“甲冑”が展示されています。
松本駅コンコースに観光センター内に飾られている“松本城の模型“があります。

松本市マスコットキャラは『アルプちゃん』で、松本城に掲げてある『アルプちゃん』は~甲冑version~です。
本来のお姿は、帽子は北アルプスの山がデザインされ、服は豊かな自然の緑で可愛らしく手にはバイオリンを持っています。



善光寺

『牛にひかれて善光寺』

松本駅からJR“篠井線”で北アルプスの穂高岳、中岳を望みながら山岳地帯を走りぬけて千曲川の流域を見下ろしながら長野盆地の長野駅に到着します。

名古屋に住んでいた昭和50年代後半頃に友人に連れられ深夜に出発して早朝に善光寺に着いてお参りしてとんぼ返りした弾丸観光をしたことがあります。
門前町のお蕎麦も賞味せず帰った特攻参拝でした。
今一度、極楽浄土へ導いてもらうために善光寺へお参りします。
善光寺は、『身分も男女も善悪も問わず、どんな人でも必ず極楽往生できる。』と言われています。江戸時代では「遠くとも一度は参れ善光寺」と語り継がれてきた言葉です。一度でもいいから善光寺でお参りを。そうすれば極楽往生が約束される、と古くから信じられています。
善光寺本堂
善光寺の本堂は、皇極天皇元年(642年)の創建以来十数階の火災の遭っており、現在の建物は宝永4年(1707)の再建です。間口は約24メートル、奥行きは約54メートル、高さは約26メートルあり、江戸時代中期を代表する仏教建築として国宝に指定されています。
本尊を祀る仏像に、参拝者のための礼拝堂が繋がった特殊な形をしており、棟の形が鐘を撞くT字型の道具・撞木に似ていることから「撞木造り」と呼ばれています。国宝建造物の中では東日本最大、檜皮葺建造物の中では日本一の規模を誇る広大な建物です。  ©看板より
善光寺本堂(つづき)
床下には約45メートルの暗闇の回廊があり、秘仏の御本堂・善光寺如来さまと潔縁する「御戒壇めぐり」をすることが出来ます。
©看板より
西国三十三所の観音巡礼を満願していて、御礼参りとして“高野山奥の院”、比叡山延暦寺“、“東大寺二月堂”をお参りしていて、“善光寺”も加わりました。

『仁王門』から仲見世通りの石畳を歩き『山門』を潜ると『本堂』でます一直線に配置されています。まずは本堂まで進みます。

本堂前の『大香炉』にお線香一束をお供えして立ち込める煙で全身を清め、無病息災、病気平癒を祈り本堂へ行きます。
『山門』
参道に聳える『山門』は、京都知恩院や南禅寺の山門と比べても見劣りしない建物です。
日本三大三門は、京都南禅寺、東福寺と久遠寺とされています。
南禅寺:横幅50m、使高さ24m、用されている屋根瓦は約7万枚。
東福寺:幅約26m高さ約22mの、巨大建造物。
     現存三門としては日本最古。
久遠寺:間口23m、奥行9m、高さ21m
知恩院:間口45m、奥行35m、周囲に幅3mの大外縁がめぐらされている。

善光寺:正面20メートル、高さ20メートル、奥行き7.8メートルの入母屋造り(いりもやづくり)の大楼門です。
山門【さんもん】は、江戸時代中期の寛延三年(1750)に建立されて以来、大勢の参拝者を本堂に迎え入れてきた歴史ある門です。様式は五間三戸二階二重門、屋根は入母屋【いりもや】造りの栩葺【とちぶき】で、国の重要文化財に指定されています。弘化四年(1847)の善光寺地震や、昭和四十年代の松代群発地震などの影響で建物の基礎が損傷し、加えて全体の老朽化も進んだことから、平成十四年(2002)10月から平成十九年(2007)12月までの約5年間、山門としては初の大規模な修復工事となる平成大修理を実施しました。
これにより山門は従来の檜皮葺【ひわだぶき】屋根から建立当初の栩葺屋根に復原され、国内に現存する最大の栩葺建造物として甦りました。この修復後、約40年にわたって中断されていた二階への登楼参拝を、平成二十年(2008)から再開しています。  ©看板より
山門に掲げられている額の文字には幾つかの特徴があります。
鳩字の額
楼上には輪王寺宮【りんのうじのみや】公澄法親王【こうちょうほっしんのう】筆の「善光寺」と書かれた額が掲げられています。大きさは約三畳分あります。これは通称「鳩字の額」と呼ばれており、三文字の中に鳩の姿が五羽隠されています。更に「善」の一字が牛の顔に見えると言われています。現在山門に架けられている額は平成大修理の際に作られた二代目であり、先代の額は現在史料館で見ることができます。
『山門』の二階からは、遠くに志賀高原、菅平高原。眼下には本堂や仲見世通りが見えます。
「牛に引かれて善光寺参り」
むかし、善光寺から東に十里の信濃国小県郡に、強欲で信心が薄く、善光寺に一度もお参りしたことのないお婆さんが住んでいました。
ある日、お婆さんが川で布をさらしていると、不意に一頭の牛が現れ、角に布をひっかけて走り出しました。お婆さんは布を取り戻したい一心で追いかけ、遠く離れた善光寺までやってきました。
牛は善光寺の境内に飛び込むとふっと姿を消してしまい、そして牛が持ち去ったはずの布は、善光寺の如来様の厨子の前にありました。牛の正体は仏様の化身だったのです。
お婆さんは、自分を善光寺に導いてくださった仏さまに感謝し、以来信心深くなって極楽往生を遂げたとのことです。このお話は『牛にひかれて善光寺参り』と呼ばれ、広く語り継がれました。
    ©看板より
経蔵
経蔵
宝暦9年(1759年)に完成した、経本の収蔵庫です。間口・奥行きは約11.5メートル、高さ約13.5メートルです。
中央には八角形の回転式輪蔵があり、元禄7年(1694年)に寄進された鉄眼黄檗版一切経の経本が納められています。輪蔵の腕木を押して一回転させると、中の経本をすべて読んだのと同じ功徳がえられると言われています。
  ©看板より
長野駅から善光寺まで“NAVITIME”で調べたら1200円でした。長野駅でタクシーに乗ったら、大通りはゆっくり走り、直ぐに赤信号でとまり、青信号になってもなかなか発車しない。“仁王門の前で止めて下さい。”と言っても遠回りして仁王門の裏まで走り料金1600円でした。非常に腹立たしいです。
仁王門
現在の仁王門は、当県山形村の水田兵太郎をはじめとする全国信徒の篤志により、大正7年(1918)に再建されました。開口約13メートル、高さ約14メートル、屋根は同瓦葺です。
仁王像および背面の三室荒神像・三面大黒天像は、近代彫刻の巨匠高村光雲と米原雲海の合作です。「定額山」の額は伏見宮貞愛親王の御筆によるものです。  ©看板より
『仁王門』から『山門』までの中店通りは、多くの店が並んでいます。イメージ的には蕎麦屋さんやお土産屋さんが並んでいると思っていましたが、スイーツやスターバックスのコーヒーショップと現代に即した店舗が多いです。
日本三大蕎麦と言えば、戸隠そば、出雲そば、わんこそばだそうです。戸隠そばは、信州の戸隠地域でとれるそばで信州そばになります。

善光寺仲見世通りにある“蕎麦やさん”。タクシーに勧められて入ってみました。細くて冷水でキュっと締められたもりそばですが、汁が薄味でした。
世間で美味しいお蕎麦を、すすると鼻から蕎麦の香りが通り抜けのど越しさわやかと言われていますが、私には良く分かりません。
信州そばの有名なソバ産地として、「戸隠」(旧戸隠村、現 長野市戸隠 )「開田」(旧 木曽郡開田村、現 木曽町)、「川上」(川上村 (長野県))、「柏原」(上水内郡信濃町)、「唐沢」(東筑摩郡山形村)、「富倉」(飯山市)、高遠(伊那市)等がある。