『青函連絡船』
| 昭和56年6月中旬頃だったと思う。秋田県田代試験場でN-Ⅰロケット2段厚肉タンク燃焼試験が終了し金曜日の夕方から名古屋へ帰る予定だったがそのまま帰らず大館駅から特急白鳥に乗り青森駅に到着した。そして深夜24時の青函連絡船に乗り北海道に渡った事がありました。 当時は青森駅が深夜で周囲の景色を見る事ができず、ホーム続きで青函連絡船に乗船したと思う。 現在は、青函トンネルが開通し青函連絡船はフェリーとして運行されている。 朝の陸奥半島と津軽半島に囲まれた陸奥湾は波静かで、今、青森港に立って見ると青森駅の線路が青函連絡船の船着き場まで線路が敷かれているのを見ました。 |
| 青森港に停泊していたのが「八甲田山丸」で、人間の記憶というものは曖昧で昭和56年に乗船したのが深夜の真っ暗な港で乗船したが「八甲田山丸」のような気がしてきた。函館港に着いたのは午前4時だったと思う。 また、青森発の寝台特急に乗るために青森駅に来たこともあります。 ただ何れも夜の青森駅を歩いただけでした。 |
| 青森港は陸奥湾の中にあり波は凪いていて静かな海でした。 沖合に見える陸地は”下北半島”です。 |
| 青森駅から陸奥湾に張り出した引き込み線で待機している、青森~秋田間を走る「特急つがる」見慣れない列車ですが、雪国仕様になっているのでしょう。 昭和56年頃は、「急行つがる」で青森から上野まで走っていてベンチシートの夜行列車だったと思う。 一度、利用して座ったままで10時間以上乗車するのは足腰に負担がかかり非常に疲れ寝台列車のありがたみが良く分かったことを覚えています。 |
| 青函連絡船港の西に『津軽半島福景色』があります。1977年(昭和52年)に大ヒットした石川さゆりの曲です。 ♪上野発の夜行列車 おりた時から 青森県は雪の中 ♪ 北へ帰る人の群れは 誰も無口で ♪ 昭和56年頃から何度も上野発の夜行列車『あけぼの』に乗り、秋田県鷹ノ巣駅に降りていたことから、この“上野発の夜行列車 降りた時から ・・・・雪の中”の歌詞を思い浮かべ当時の出張を思い出しています。 |
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| 青森観光物産館『アスパム』。 正三角形をした13階建てのビルです。物産館と云うから特に興味なく外観写真を撮影して通り過ぎましたが、後からパンフレットを見ると展望台があり陸奥湾や山々が展望できる事を知り、観光すればよかったと反省。 |
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『ねぶたの家 ワ・ラッセ ねぶた祭り』
| 青森駅の東に、「ねぶたの家『ワ・ラッセ』」があります。 、2023年の『優秀製作者賞』を受賞され実際に使われた”ねぶた”が展示されています。 東北三大祭りの”ねぶた祭り”。 毎年8月2日~8月7日に開催され、七夕祭りの灯篭流し「眠り流し」の風習が習合したものとされ、農繁期前の夏の農作業の厄災を払う行事です。 「ワ・ラッセ」とは、ねぶたの掛け声である「ラッセラー」と「笑い」の他に、ねぶた祭での人と人の『和』や調和の『和』、また、ねぶたを通じた活動により育まれる市民の『環』をコンセプトとしております。 |
| ねぶたは大きな人形灯籠で”ねぶた師”達が製作されています。2023年の「優秀作」です。幅10mもあり、針金等で骨組みを組み和紙を貼り塗装されています。 |
| ねぶたとは、古来日本で、旧暦7月7日の年中行事(すなわち七夕行事の一つ)として行われてきた夏祭りの一類型である。 主に東日本各地で行なわれてきたが、とりわけ近世以降の津軽地方(江戸幕藩体制下においては弘前藩領。明治維新以降の青森県西部)において盛んで、祭りの形態も主にこの地で進化・発展を遂げてきた。全国的に有名なのは、青森ねぶたと弘前ねぷたで、これらは1980年(昭和55年)に重要無形民俗文化財に指定されている。 一般には「ねぶた祭り」と呼ばれることが多いが、行事の正式名称としては、青森ねぶたのように「ねぶた」と呼んで仮名表記する例のほか、「ねぷた」と呼ぶ場合や(弘前ねぷたなど)、漢字の当て字で「佞武多」と記して「ねぷた」と読みならわす例(五所川原立佞武多)もある。 |
| 『金魚ねぶた灯籠』子供の頃に同じ形のブリキ製の金魚灯籠を持っていた。 |
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『縄文時代の遺跡』
| 三内丸山遺跡は「縄文時代」の遺跡です。JR新青森駅からタクシーで10分で到着します。 縄文時代は、紀元前13,000年から紀元前400年とされています。旧石器時代後期にクロマニヨン人出現から2~3万年後です。また、1万年前までは日本は九州と朝鮮半島、北海道の樺太と中国大陸と陸続きになっていたかも知れません。 北海道から渡ってきた人類が北海道と北東北に住み着いたのでしょうか。 世界遺産『北海道・北東北の縄文遺跡群』が登録されていて、三内丸山遺跡はそのうちの一つです。 |
| 三内丸山遺跡は、日本の歴史で石器時代に次ぐ縄文時代の前期~中期(紀元前3,900~2,200年)の大規模集落(ムラ)跡で、縄文時代の住居や建物が復元されています。 動物や魚の骨、植物の種子、漆器などのゴミ捨て場や埋葬された墓があり村を形成されていた。 狩猟民族から土器が作られて食料を保存できることから定住される。 遠い昔に「縄文時代」を習ったが、記憶に残っているのは、定住民族で、木の実、貝そして狩猟して食料得て暮らしてきた。土器を作り食料を保管してきた。 高床式校倉造りと思うのですが、奈良公園にある校倉造りが最古と聞いていましたが、縄文時代にも校倉造り技法が存在していたとは。 住居は、『竪穴式住居(復元)』、『大型竪穴式住居(復元)』が建っていました。 子供の頃、近くの森で作っていた”秘密基地”に似ています。落ちている材木やつるで組み立て葉っぱを屋根にした小屋みないなものです。 |
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| 復元された「大型堀立柱建物(復元)」。 この時代の建築物は、地面に穴を掘り木の柱を建てて土で支えるもっとも原始的と思われる工法で建物が建てられている。子供のころ砂場で物を組み立てていた要領に似ているような気がします。 重機もコンクリートもない手で建物を建てる場合は、この様な工法になるのでしょう。 |
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| 縄文土器の色は、黒褐色又は赤褐色です。 土器の出現により食料の保管が可能になり定住することが可能となった。その土器の形状により縄文時代の区分ができるそうです。 佐賀県の「吉野ヶ里遺跡」は弥生時代の遺跡で卑弥呼がいた時代。邪馬台国議論は別途です。 これは縄文時代は、窯を使わず、野焼きというたき火のような形で土器を焼いていたため、火の温度はだいたい600度~800度でした。低温度で土器を焼いたため、表面が茶色っぽくなっています。 |
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『あおもり犬(青森県)』
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『鶴の舞橋 鶴が翼を広げ休んでいる風景』
| 津軽富士(岩木山)の麓の富士見湖にかかる全長300mの日本一長い木造三連太鼓橋です。 長い木きの橋・長い木の橋と言うことで、この橋を渡ると長生きができる言われていて渡りに来ました。 鶴が羽を下ろして休息している姿を模しているとされています。 「鶴の舞橋」到着すると、ここも修復工事中でした。観光客も私たちを除いて一組で、「道の駅 鶴の里あるじゃ」も営業していなくて寂しい風景です。 交通手段がなく折角タクシーを飛ばして来たのに老朽化により補修工事中で橋を渡る事ができません。 |
| 「鶴の舞橋」の外観は撮影できるので、富士見湖パークからは鶴の舞橋と八甲田山連峰が撮影できます。 秋の風景らしく澄み切った空と せめて岩木山とのツーショットだけでもと撮影しました。 岩木山頂には雲が掛かり山頂を拝むことができませんでした。恐らく前線が通過するとみの雲と思われます。 |