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備中report

備中松山城

『日本で唯一現存する天守を持つ山城』

備中松山城は、日本で唯一現存する天守を持つ山城とです。
標高430メートルの臥牛山に位置し、雲海に浮かぶその姿は「天空の山城」とも称されるほど幻想的です。江戸時代に修築されたこの城は、国の重要文化財に指定されており、その歴史と美しさは多くの人々を魅了してやみません。


2016年NHK大河ドラマ『真田丸』のオープニングに備中松山城が使用されています。大手門と岩盤、本丸下の段、天守の屋根などが使われています。
備中松山城の歴史
この城の歴史は古く、鎌倉時代の延応二年(1240)に有漢郷(現在の高梁市有漢町)の地頭に任ぜられた秋庭三郎重信により臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことに始まります。
 その後、小松山に移り、城の縄張りは時代とともに変化しますが、なかでも天正2年(1574)に起こった「備中兵乱」時は、「砦21丸」と呼ばれた出丸が築かれていたことが記録として残っており、臥牛山全域が一大要塞となっていたことが、うかがえます。
 当時の城主であった三村氏が滅んだ後も、毛利氏の東方進出の拠点として、またさらに毛利氏が防長二国に退いてからも、備中国奉行として赴任していた小堀正次・政一(遠州)父子により修改築がなされるなど、備中の要衝としての役割を担っていたようです。以降、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主が変わり明治維新を迎えますが、現存する天守などは天和3年(1683)に水谷勝宗により修築されたものと伝えられています。 ©パンフレットより
天守(国指定重要文化財)は、木造本瓦葺き二層二階の建物で、内部一階には囲炉裏と装束の間が、二階には広い空間に城の守護神を祀った御社壇があります。古い木組みの構造の中に、美しい手斧と槍鉋の跡が見られます。

天守は籠城するために建設され生活をするところではない。現存天守ならではの体験ができます。
猫の城主「さんじゅーろー」。
「さんじゅーろー」は、2018年の西日本豪雨の後に城の三の丸で保護され、その後正式に城主として迎えられた。備中松山城は、その自然の美しさと、猫の城主「さんじゅーろー」の魅力で訪れる価値がある場所です。
備中松山藩(現高梁市)出身の新選組隊士で七番隊の隊長を務めていた「谷三十郎」にちなんでいる。
備中松山城はふいご峠までは自動車で行けますが残り800m程は急勾配の山道を登らなくてはならないし城郭からの景色も木が生い茂り絶景が見えるところが少ないです。

立派なのづら石垣です。標高430mにこれだけの石を持って上がり積み上げて作ったものだと驚きします。
岩村城、竹田城、小谷城などの山城に石垣がいるのでしょうか?。
展望台から望む高梁市。高校生と思われるクラブ活動の声援が山まで届いています。歴代城主も城下町の声を聴いていたのでしょう。

山城と云えば備中竹田城跡を思い浮かべますが、竹田城は350m程度で天守がありませんが城郭の石垣が残っています。天守跡地から城郭を望むと日本のマチピチュと言われ絶景でした。

特に秋から春にかけての早朝には、雲海に浮かぶ幻想的な景色を見ることができ、多くの観客を魅了しています。
備中高梁を観光するときは、駅西図書館2Fの観光案内所でチケットを購入しましょう。武家屋敷やお寺等の個別入場券を買うより合同チケットがはるかにお得です。

アクセスは、備中高梁駅から乗り合いタクシーに乗り備中松山城に向かう途中の武家屋敷通りを進み、石垣で作られた美しい棚田の横を通って行きます。

山道は自動車が離合できない細い道で、麓でトランシーバーを受け取り対向車が通っていないことを確認しながら登り八合目の「ふいご峠」に到着したらトランシーバーで到着したことを連絡していました。
乗合タクシーの運行は一日4往復で高梁駅10時発すると110分後に帰りの便ですが、備中松山城郭内滞在時間は50分程度になります。50分では城郭内を休憩して天守など写真撮影して“さんじゅーろー”と遊ぶには短いと思いますので、帰りは次の便にした方がゆったり楽しめると思います。
「ふいご峠」からは尾根づたいに歩いていきます。城まで7~800mの山道で69歳にとっては足が上がらず息も“ハーハー”と苦しく人生最後の山城となるでしょう。



武家屋敷 旧折井家

『お城に近い上級武士の折井家』

城下町の武家屋敷。全国に武家屋敷が点在しますが、角館や金沢に比べ小規模な街並みでした。

武家屋敷通は両側に土塀が続き、格式ある門構えの家並みが見られます。城に近い屋敷が上級武士宅になります。旧折井家は、城に近いから上級武士だったのでしょう。
入口に座っている武士の人形は突然動きます。入場受付でもん「人形が動きますので驚かないで下さい。」と案内されます。
今には当時の武士の生活を再現する人情が置かれています。武士の日常に触れることができるような錯覚に陥ります。



武家屋敷 旧埴原家

『江戸時代中期から後期にかけての武家の家』

旧埴原家は、江戸時代中期から後期にかけて、120石から150石取りで、近習役や番頭役などを勤めた武士の住宅です。備中松山城下の武家屋敷としては、寺院建築や数寄屋風の要素を取り入れた珍しい造りであり、市の重要文化財に指定されています。高梁市の偉人である山田方谷の資料についても展示をしており、方谷の関連の品を見ることができます。
『火燈窓』があります。 縁側に、ガラス容器に水をお入れ底にガラス片が入っていて切り花を浮かべてあるのが幾つか置いてありました。




頼久寺

『足利尊氏が再興した』

武家屋敷通りから備中高梁駅へ行く途中に、城郭のような石垣があります。
頼久寺由来
天柱山安国頼久禅寺は、臨済宗永源寺派に属し、その草創は不詳であるが、暦応2年(北朝年号1339年)足利尊氏が再興して備中の安国寺と号した。当時、中国より帰朝して備中備後路を巡錫中の寂室元光禅師(正燈国師)を迎請して、開山第一祖とした。後に永正年間(1504年)松山城主上野頼久公が大檀越となり寺観を一新し大永元年逝去したので、頼久の二字を加えて安国頼久寺と寺号を改称した。尚、当山御本尊は、聖観世音菩薩で備中西国第五番の札所であり、昭和60年3月に開創された瀬戸内観音霊場第十三番の札所である。
  ©パンフレットより
小堀遠州作の庭園。『鶴島』と『亀島』が配置され写真は『鶴島』 です。
庭 園
慶長5年(1600年)小堀新助正次が、備中国に一万石余を領したが、慶長9年に逝去したので一子作助政一(遠外目が遺領を継いだ。その頃の松山城は備中兵乱後で非常に荒廃していたため遠州は頼久寺を仮の館とし、またよく本寺を外護され、元和5年(1619年)までこの地にいた。本庭園はその頃の遠州の作庭になるもので、蓬莱式枯山水庭園で愛宕山を借景し、白砂敷の中央に鶴島、後方に亀島の二つの低い築山状の島を置いて石を組み、書院左手の山畔に沿ってサツキの大刈込みで青海波を表現した庭園である。鶴島は三尊の石組を中心に周囲をサツキの刈込みで中島景観を表現し、亀島は亀の姿を具象的に表現している。又、山畔のサツキ一植の大海波を表現する大刈込みは、園内最も優れた美的景観を示している。
   ©パンフレットより
庭 園(つづき)
このような築庭様式は、桃山から江戸初期に好まれたもので、現在まで旧態のまま保存されていることは、歴代城主の帰依の念篤きことと、歴代住職の愛山の念深きことによるものであって、遠州作庭中の傑作庭園と称せられており、昭和49年国の名勝(庭園)に指定された。尚、自筆の禁札他遺愛品数点が保存されており、別に暦応2年12月西念勧進による石灯籠がある。    ©パンフレットより